昭和50年11月14日 朝の御理解
御理解、第62節
「昔から、人もよかれわれもよかれ、人よりわれがなおよかれというておるが、神信心をしても、わが身の上のおかげを受けて、後に人を助けてやれ。神信心も手習いも同じこと、一段一段進んでゆくのじゃ。にわかに先生にはなれぬぞ。」
「神信心をしても、わが身のおかげを受けて」と仰るのですから、これは私の持論ですけれども、聞きようによりますと「合楽は、合楽の事ばかりを願う、自分の事ばかりを言う」という風によく言われます「此方は人が助かる事さえ出来れば」と言うておられるのだから、人の助かりを願わにゃいけん。人の助かる事が自分の助かり、と言う様な心で願わにゃいけん。もう話しは成程それは立派ですけれども、自分自身が助からない者が、如何にそれを「人が助かる事さえ出来ればよい。」
からと言うてなら人に伝えても人は助からんです。だから「人もよけれわれもよけれ人より我は尚よけれと言うておるが神信心をしても」と仰る。神信心をしても矢張り自分が助からねばならん。と言う事は信心がよく腹に入らなければならない。そこに自分の信心の助かりがある。信心の私は助かりと言う事は勿論、心ですけれども又はそれに伴う形も矢張り助かる事になるのですけれども、先ずは矢張り心が助からねばならん。
昨日は十三日会で、昨日始めて今度十三日会の案内を出しませんでしたけれども、やっぱり同じ十三日会に集まって来る人達は皆集まって来ておった。本当に矢張り思わせて貰うのに「神の願いが成就する日」と合楽では言われて十三日という日を大事に致します。そういうものが、何時の間にか皆さんの心の中に染み込んでしまっておるから、案内を受けずとも矢張り皆出て来ておられるのだとこう思います。助かると云う事はその様に自分の心から放れない。
教えが放れないそして心が合楽合楽、十三日会十三日会と、十三日会に集まる。それが私はまず助かりの初めだと思うです。そして皆さんの話を頂かして貰うて本当にピンからキリまでのそれぞれの信心、言うならば段階を追うて、此処で「信心も手習いも同じ事、一段一段進んで行くのじゃ」と言われております様に、昨日発表を七八人がなさいましたが、本当に段階を感じます。
矢張り十三日会でも集まって来る方達は、本当に信心の稽古をしておるのだななと思います。自分の願いだけがね、成就すればそれで良いのだ。成程、それは自分が助かると云う事に継ながるのですけれど、先ず「わが身におかげを受けて」と言われるからお参りもしない。例えば「神様の願いが成就する」と言われる様な。大事な目にでも、忙しいからと言うのです。それではねいくら自分が助かりたい助かりたいと言うても助からないです。自分が助かる。
先ずわが身のおかげを受けてまずわが身が助かってと言う事は、どこまでも信心が血に肉になって行くと云う事です。だから血に肉になっていないなら十三日会に、しかも私共が願いとするその「神様の願いが成就する日」と言われる程しの日ですから、それに応えさせて頂くと言う様な信心が出来なければ助からない。助かる筈がない。何年何十年信心しても、ただわが身の上におかげを受けて行くと云う事はあろうけれども、それで助かったというのではない。
今日私は金光大神御理解というのが御座います。これは教典に載ってない所のものなんですが、それに「神の心になって信心せよ」とおっしゃってある。神の心になって信心せよと。それは神様の、言うならば天地金乃神様の内容というならばです、言うなら天地日月の心と云う事になりましょうが。そういう大変な事でもありましょうが、そう言う事ばかりはないです、神の心になってと言うのは。例えばです今日は神様の願いが成就する日だと仰せられるから。
神様の願いが成就する日、だからそれに参画させて頂くと言う事は、もう即に神の心になってと言う事になるでしょうが。もう一事が万事です、神の心になって信心せよと、おかげがある。それは、先ず「わが身におかげを受けて」とおっしゃるから、お参りはせんでも神様の心にはならんでも、そりゃ先ずわが身におかげを受けてと、いただくおかげはどれだけ例えばおかげを頂いても、それは助かる事には継ながらない。信心が一段一段解って来ると言う事は。
神様の心になると言う事が、だんだん本当な事になって来た。神信心をしていながら、神をたばかり無礼粗末をすると言うところがあります。神信心をしておっても、ただ自分の我情我欲の為だけで、助かると言う事は、本当の助かりは得られない。先ずわが身におかげを受けてと云う事は、先ずわが身が助かってと言う事。いわゆる神様を外さず教えを外さず信心をしてこそ初めて人が助けられるほどしの信心が身に付いて来る。自分が助からなければ出来ん。
今教団で盛んに言われておるところの、「社会に布教する社会に打って出る金光教」と言う事であっても助からない者が、いかに社会に呼び掛けても大した反響はない。自分の心に信心の喜び、言うならば心の喜び本当に自分が助かっておると言う事。それを昨日は、助かっておられる段階というものが、皆さんのお話の中から、それこそいちだん1段がはっきりするように、その助かり具合というものが、皆さんに聞きよってそれを感じた。 本当に助かって行きよんなさる。心が助かって行きよんなさる。
心に光を頂いて行きよんなさる。その心に力を頂き心に光を頂かして貰うて、それをもって出るでなければ、それこそ暗い所が明るうなるという、光の輪を広げて行く事でしょう。金光様の信心を社会に広げて行く事は、ただ広げてと言う事ではない、助かりの輪というものが広がっていかなければならない。それはなら言葉を換えると、光の輪を広げて行くと言う事である。
それは心が真っ暗な者が、如何に百人集まった所で大した事ではないです。心に信心の灯と、それが沢山集まって明々とした光に明かりになる。そこに社会が明るくなって行く清まって行くという働きになって来る。先ずそれには、先ず「我身におかげを受けて」と言う事は、先ず私自身が力を頂かなければならない。私自身の心の中に光が灯らなければならない。「信心なければ世界が闇なり」と仰せられる。
信心とは光と言う事だと思う、闇と言う事に対する。だか闇の世界に信心の光をかかげると言う事が、とりも直さず「わが身におかげを受けて」と言う事であります。ただ「病気が治りました。願うておった事が成就しました」というのは、私はわが身におかげを受けてとか、そのわが身におかげを受けて人までおかげを受けられると言う様なものではない。自分が助かると言う事は、言うなら心に何時も光を頂かして貰う、力を頂かして貰う、それが人を助ける事になる。
合楽では、先ず自分が助からねばならぬと言う事は、自分の願いが一つ二つ成就すると云う事はなくて、どういう中にあっても言わば信心の光を消えない。そういう光を求めての信心、それには私共が「神の心になって信心をせよ」でなければいけんのです。神の心と言う事は、それはそれは神様と同じ様な心と言う事は、なかなか出来ないと。それは出来んと。また出来んかも知れません。生神金光大神を目指す事は、中々大変な事でしょうけれども、けれども矢張り目指す所はそこである。
そのです私は一番手近な所はです、神様の願いに応える信心だと思います。そうして見ると、合楽で十三日会が開かれる。その十三日会に参画をすると言う事は、神の願いが成就するその事の為に、神様の願いが成就する事の為に、参画させて貰うのですから、それが神の心であることが解ります。だから神の心と言う事はそういう風に、私は容易う頂いて行かねばいけない。
「神の心になりて信心せよ」とこう言う事。十三日会の事だけではありません。日常生活の上にです、言うならば神様の願いに応える生き方こそが、神の心になる事。それが取りも直さず信心の血に肉になる事。それが取りも直さず、自分の心の助かりになること。それが自分の心の光になる事。そういう力そういう光を頂いて初めて、私は、社会に打って出らして貰う。
言うならば人を助けよ。先ず「わが身におかげを受けて後に人を助けよ」と仰る事の信心が出来ると思う。それから先の助かりというものは、もうそれこそ段階を追うて、限りがないのです。自分が助かって行くと言う事は、もう絶対神の心になってという生き方にならなければ、自分は助かりません。ならいかにもそれは難しいようですけれど、そうではない。教えを頂く。
教えを頂いてその教えを行ずると言う事は、そのまま神の心になってと言う事に通ずる。それを例えば、一つ形に表してですね。合楽では十三日会という会が持たれて、段々その会に参画さしてもらう方達が増えて来て、おかげを頂くと言う事になって来て初めて、それがです言うならば、全国に言うならば十三日会が持たれる様になる。それは必ずね。十三日会の内容です。が持たれる様になる事を、先ず願いとして社会に打って出ると云う事でなからなければいけない。
光を持たないものが、どうして金光教を広めて行こうかと、いくら協議を致しましても集まりましてもそれはもう烏合の衆にしか過ぎません。先日から頂きます様に、言うならば自分の心を開拓して行こうとせずに前にある言わば神様のおかげの世界。言うならば蓮根畑を埋めて行こうと言う様な在り方では惟は自分の助かりにもならん。言わば神様の働きを狭めて行く様な事にしかならんのです。
先ずは自分が助からねばいけません。「人も良けれわれも良けれ、人よりわれはなおよけれ」と言う事は、これは「神信心しても」と仰った。神信心しても、人よりわれはなお良けれと言う程しの。おかげを受けて。その受けたおかげと言うのが光であり力であるというおかげでなからなければ、次の段階である所の、人の助かるという働きには継ながりません。そこの所が手習いも神信心も同じ事である。一段一段進んで行くのじゃと。その一段一段進んで行くそれを楽しみに信心しなければならない。
昨日の十三日会には、そこの所をはっきりしておった。もうその中で一番私は感じた事ですけど、その発表された方の一番若い信心と言うならば、久留米の岡崎さんが発表されました。先日松栄会の時に夕食会をして先生も一緒に食事をしてくれと言う事でしたからね、フグ料理を沢山作って御座いました。それでお酒も頂きました。それで私は岡崎さんに、「何か一つ唄え」と言うた。言われた時にです、本当に例えなら子供の時に歌った唱歌でもよい。「ハイ」と言うてどうして歌わじゃったじゃろうかと。
先生が「唄え」と仰れば歌い。「踊れ」と仰れば踊る。それがこの金光大神御理解集にも出ておるです。神様が「歌え」と言われれば歌い、「踊れ」と言われれば踊る気になって信心せよ。だからその岡崎さんの言われた事は、その通りの事です。本当に先生が「唄え」と言われれば歌う。いや私は歌いきらんもう「ジグラ踊りでも踊れ」と言わっしゃったら踊るという心になって信心せよ。同時にそれは先日でしたけど。
「岡崎さんあんただん、朝晩の御祈念なんかどういう風の、夜の御祈念なんかやりよるの」と言うたら、そりがええともう信心する様になってから、椛目の時代になってからもう十年からお参りして来よるけど、只自分の何か願わんならん所は、御神前に出て御祈念をしますけども、御祈念をいいえ言わば「御祈念をしていない事を指摘されて、それから晩にゆっくり御祈念をする事を始めた」とこう言う。神様と交流する。神の手掛り唯頼む時だけではなくて、是は行の様に是を続ける途言う事。
私は今日の先ず自分が一番助かると言う事の、初めの手掛りは是だと思うですけどね。先生が「踊れ」と仰れば踊る。「唄え」と言われれば歌うという純粋さ。素直さそれが日々例えば、日々信心をさせて頂いて夜の御祈念は夜の御祈念が心行くまでです、心の静まるまで神様との交流を感じるまで、なら御神前に出て御祈念をさせて頂く。それはもう行の様に欠かす事なしにさせて頂くというそれが一番初めの序の口です信心の。だからそれも出来ずして、十三日会も出て来ずして例えていうならね。
惟では何時まで経っても自分の助かりはないです。まあ言うならば神様が喜んで下さると言う事は、神様が助かって下さる事に精進しなければいけないと言う事になります。それにただ自分の願う時だけ神様を拝む。そして神様の言う事は聞かぬ。是では自分の助かりようはありません。先ず我身におかげを受けてという。私は段階を追うて一段一段と進んで行くと言う事ですけど、そういうしみじみとした信心が、一段一段愈々大きな光になって行く。言うならば、安心のおかげとでも申しましょうか。
人が難儀。ああ困ったと言うているのを聞いた時にそれは、決して困った事ではないと言う事を、自分自身が信じておらずして、そげんただ慰め的に「まあそげん悲しみなさんな、心配しなさんな」と言うたってです、それが伝わる筈がないですよね。自分が本当に助かると言う事のおかげを頂かして貰う。成程人より我は尚良けれ。人より我は一段と光を頂き力を頂き徳を受けるという信心をです、身に着けて行こうという一つ心構えを持って信心させて頂く。そして「神の心になって信心する」と言われる。
神の心になると言う事は、まあ大変難しい事の様にあるけれども、なら十三日会なら十三日会という、神の願いが成就すると言われる。そういう日に参画さして貰う。お掃除の一つも、雑巾の一つも持たして貰う。昼からは神様の愈々お喜び頂けれる、信心の共励も一緒にさせて貰う。神の願いもその様にして成就して行く事の為に、私共が参画させて貰うと言う事が、とりも直さず神の心になって信心をする事になるのです。
どうぞ。